アインシュタイン博士が訪れた九州大学と福岡(その1)

2016 年頃、アメリカのtwitterに写真のようなアインシュタインあての手紙の画像が流れました。アインシュタインがスイスのベルン大学へ博士号の申請をして准教授のポジションを求めたのに対する拒絶の手紙です。すでに1905年の相対性理論の論文、光電効果の論文、ブラウン運動の論文などを発表後のアインシュタインの応募でさえ、このような扱いをうけたということで、論文をリジェクトされたり、妙なレフリーにあたって困っている研究者を中心に拡散した写真です。ノーベル賞を後に受賞する論文がリジェクトされた例はいっぱいありますし、ノーベル賞をやがてもらう人を教授人事で落としているところもいろいろありますから、共感の輪がひろがったのもうなずけます。でもこれはフェイクです。おかしいところがわかりますか?ベルン大学はスイスのドイツ語圏の大学です。アインシュタインはベルンの特許局につとめていたわけで、論文はドイツ語で書いています。ということで英語でベルン大学とやりとりするわけはないです。また、調べた人によると、署名している名前の人は存在しません。通りの名前とかも当時のものとはちがうし、いろいろフェイクだという証拠があるそうです。英語の手紙をドイツ語で論文をだしているアインシュタインに書くわけはありません。この手紙についてベルン大学が書いたホームページには、さらに詳しくフェイクの証拠が列挙してあります。また本当のアインシュタインとベルン大学のやり取りも詳しく説明されているのでご覧ください。たしかにアインシュタインは1907 年7月17日にベルン大学の講師のポジションに応募しましたが、提出書類が一つたりない(habilitation thesis―大学教師資格取得論文―といって、教育研究が一人でできるということを示す論文)という不備のため、なしでも採用しようという意見も多かったのですが合格しませんでした。ただ上のホームページにあるように、habilitation thesisを早々に再提出してくれればよいという手紙を大学がだしており、アインシュタインはその指示にしたがって書類を提出して1908年2月28日付でlecturerに採用されたということです。1907年はアインシュタインが等価原理を発見した年でした。彼は1922年ノーベル賞受賞を日本への船旅の途中で知ることになります。その船中でアインシュタインを治療した日本のお医者さんは九州大学の教授になる方です。その話を次回したいと思います。(つづく)