今日は8月6日です。防災無線で広島原子爆弾犠牲者追悼の鐘がなりました。福岡は広島や長崎に近いので、原子爆弾の犠牲になった方の身内や被曝二世とかの方も多く暮らしておられます。あの戦争のことは、私の父親や家内の両親からいろいろききました。そんな話もブログに書いておくことにしました。
私の父親は二度、出征しました。一度目は中国に派兵されて、無線機の修理にあちこちまわっていたようです。京都市の都市計画のモデルになった西安(長安)にもいったことがあると話していました。中国人の子供はものすごくかわいいといつも言っていました。軍隊で支給された中国語会話の本も残してあったので、私も小学校に行く前に、その本で数の数え方などの中国語を知りました。
二度目の徴兵では南方戦線に向かうことになりました。各自の出身地で入隊し、武器を受領した部隊から順次南方に向かいます。父親の部隊は「天皇陛下から受領する」武器の受領が遅れたため出発が遅れ、先発隊よりだいぶ遅れて船で南方へ向かったそうです。その航海の途中、「敵第7艦隊 機動部隊接近中」の警報で、台湾の港に緊急避難のため入港、下船したそうです。その夜、港に大空襲があって、乗ってきたすべての船が撃沈され、もはや南方には向かえなくなり、台湾で終戦を迎えました。先に出発した郷里の部隊は南方で全滅し、一人も戻ってこなかったそうです。台湾で歩哨に立っていた時、近くにいた人が父に「兵隊さん、危ない!」と大声をかけてくれて とっさに飛んで地面に伏せたそうです。米軍の艦載機が父をめがけて爆弾を落としたのでした。落ちてくる爆弾をみて女の人が、大声をかけてくれたとのこと。幸い脚にけがをしただけですみました。あの女の人が声をかけてくれていなかったら、死んでいたよとよく話していました。父は台湾で終戦を迎えたのですが、終戦直後、知り合いの兵隊が上官から、車に乗りたいのでお前運転しろと命令されました。その兵隊は自分は運転免許も持っていないので運転できませんといったのですが、簡単だから運転しろと命令されて無理やり運転させられたのだそうです。そのあげく、車は爆撃で道に開いていた穴に落ちてしまい、その同僚は命を落としたそうです。終戦を生きて迎えたのに、名誉の戦死という広報がだされたと悔しそうに語っていました。父は台湾で、モーターボートに爆弾を積んで体当たりする特攻兵器(震洋やマルレと呼ばれたものです)の修理、整備もしていたそうです。いつも言っていたのは兵隊が死ぬとき、「天皇陛下万歳!」などと言って死んだというのは嘘だ。みんな「おかあちゃーん」といって死んでいったのが 本当のことだ、という話でした。