アインシュタインが訪れた九州大学と福岡(その3)―アインシュタインの旅日記(日本語版)を読みました

このたびの豪雨災害にあわれた皆様にお見舞い申し上げます。近所の方も親戚の家が床下浸水になったとのことで、逆性石鹸(逆性セッケン)をもって後片付けにでかけておられます。猛暑がつづいていますが、どうぞお体を大切になさってください。

アインシュタインの旅日記。町の図書館にいって探してみると日本での旅日記は、なんと、2001年に世界ではじめて全文翻訳されていることを知りました。さっそくその本「アインシュタイン日本で相対論を語る」(講談社)を借りてきて読みました。アインシュタインの日本への旅日記の原本まで探し当てて内容を確認して翻訳した力作で、アインシュタインの日本滞在時の写真満載でとてもよい本ですので是非ご覧ください。エルサレムのアインシュタイン文書館からの序文の他、なんとフリーマン・ダイソンの日本版へのメッセージまで収録されています。ダイソンは有名な物理学者。繰り込み理論の研究でノーベル賞級の業績を上げた物理学者(ノーベル賞は3人しか受賞できない)で、SFフアンには有名なダイソン球の提唱者であり、水爆を使って推進する宇宙船オリオンの開発でも有名です。

もう一冊、図説アインシュタイン(河出書房新社)という本も借りてきました。こちらもアインシュタインの日本滞在の詳細な紹介があるうえに、アインシュタインの理論や生涯の簡潔な紹介が多数の写真や図をまじえて行われていてお勧めです。こちらの57ページには「幻のアインシュタイン招聘計画!」というエピソードが紹介されています。アインシュタインの来日のはるか前、アインシュタインがユダヤ人ゆえにチューリッヒで不遇だったころ、東北大学はアインシュタインを教授として招聘しようとしたのだそうです。当時の東北帝大総長も乗り気で、ヨーロッパにいた石原純教授に給料の額と任期を提示して交渉にあたってもらうように依頼したと書いてありました。私が高校のとき化学の先生が授業で、昔アインシュタインを教授として招聘しようとしたが、お雇い外国人の時代はおわった、日本人でないとだめだとか議会でいわれて没になった、もしアインシュタインがきていたら歴史は変わったのに、とおっしゃっていたのは本当だったようです。

九州大学に前に紹介しましたが桑木彧雄(くわきあやお)教授がおられました。この先生はドイツに留学していたとき、日本人としてはじめてアインシュタインを訪れて面会した方だそうです。たしかアポイントもなしで、おしかけたのではなかったでしょうか。
桑木文庫というのが九大図書館にあります。そこには数学や物理などの古典があつめられていますが、それはこの先生のコレクションです。またアインシュタインの日本訪問、福岡訪問に尽力された先生でもあります。上の「アインシュタイン日本で相対論を語る」の124ページには、アインシュタインが九州大学を訪問した時の記念写真が載っており、桑木教授がエルザ夫人の横に写っています。桑木先生はアインシュタインに高く評価されていたそうで、桑木先生への色紙には、
私が知りあう喜びを抱いた最初の日本の物理学者、認識論学者 桑木教授へ アルバート・アインシュタイン、1922年 自然はつんとすました女神である(同書 124ページ)とあります。

またどちらの本にもアインシュタインが福岡で講義したときの黒板は、ニスをぬって 現在の福岡高校(当時の福岡中学)に長く保存されていたとあり、その写真が載っています。しかし実物は敗戦後、ゆくえ不明になってしまったのだそうです。空襲でやられたのか、そのへんはいろんな説があるみたいです。(写真は梅雨明けの青空です)

アインシュタイン博士が訪れた九州大学と福岡(その2)―アインシュタインの旅日記の謎

アインシュタインの旅日記の謎―なぜアインシュタインは福岡を訪れたのか

今日はものすごい豪雨でしたが、先週の土曜日(6月30日)には九州大学医学部キャンパスにある百年講堂で開催された日本生化学会九州支部会のシンポジュウムで話させてもらいました。若い学生さんたちがいっぱいで熱気にあふれてとても楽しいひと時を過ごさせてもらいました。私達は長い間 この九州大学医学部キャンパス(馬出キャンパス―まいだしキャンパスと読みます)で研究していたので、懐かしい場所です。九州大学医学部キャンパスにはいろいろな見どころがあります。詳しく書いてあるホームページを見つけましたのでここにリンクを張っておきます。以前紹介したMr.トルネードのときもこの西日本シティ銀行の「ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」」を紹介しました。いろいろ福岡のことがわかって楽しいシリーズです。そのNo.79の「九州大学医学部のきらめく博士たち」という記事です。医学部キャンパスの詳しい紹介と地図もあって、とても面白いのでご覧ください。

さてその記事の中に、アインシュタインが福岡にくることになったいきさつが書かれています。アインシュタインの旅日記という英語版の本

The Travel Diaries of Albert Einstein The Far East, Palestine, and Spain, 1922 – 1923

が最近出版され、日本についてのとても好意的な意見が書かれていて話題になっています。これは当たり前でしょう。

1922年改造社の招きに応じたアインシュタインが日本にくる船中で血便が出る下痢と発熱の症状を訴えたとき、アインシュタインの奥さんElsaが、乗り合わせていた日本人の医師に治療をたのんだそうです。癌を心配していたそうですが、医師の診断は感染症ということで、医師の薬と治療で完治したのでした。ドイツ語を話すその医師の名は三宅 速(みやけ はやり)。九州大学医学部の外科学の教授、日本外科学会会長で国際外科学会役員、ヨーロッパに何年も滞在して医師として長く働いたことがある方でした。すぐに友人となった三宅医師にアインシュタインは日本訪問の際はかならず福岡の三宅さんのお家をたずねると約束。日本での講演旅行の行先に福岡が加えられたのだそうです。アインシュタインは福岡での講演会のあと、九州大学を訪問、そして三宅さんのお家でウイーンから運ばれてきていたピアノを弾いたとのことです。
三宅さんは何故、アインシュタインと同じ船に乗っていたのでしょうか。ポーランド版のWikipediaの記事によると、第一次世界大戦のあと、国際外科学会は大戦勃発の原因となった敵国であり敗戦国のドイツとオーストリアを学会から締め出す決定をしたそうです。三宅先生は国籍で外科医をしめだすというのはおかしいと主張して、反対の署名集めに奔走、アメリカやヨーロッパを訪問して多くの署名を集めました。その結果、世界的に著名な医学者の賛同署名があつまりました。有名なMayo クリニックの創始者のWilliam James、 Charles Horace兄弟、ボストンのCushing, セントルイスのGrahamなどの署名を含む集まった署名は学会を動かしたそうです。そうした活動の帰り道に乗船した北野丸にEinstein夫妻が偶然 同乗して日本へ向かっていたのです。

三宅先生はその後、もう一度ヨーロッパでアインシュタインと再会、旧交をあたためたそうですが、1945年、米軍の空襲で、岡山の防空壕に避難していたところを殺害されました。芦屋に住んでおられた三宅先生と奥様の三保さんを、息子さんが岡山の自宅に呼び寄せ、鳥取へ疎開する2日前のできごとだったそうです。

戦争が終わった後、息子さんがプリンストンにいたアインシュタインにご両親の死を連絡して墓碑銘へのメッセージをお願いしたところ、ドイツ語と英語のメッセージが届いたとのことです。そのメッセージはタイプうちされていたそうですが、沢山届けられていたアインシュタインの直筆の手紙から一字一字選んで肉筆のメッセージに変換、拡大して三宅先生のお墓に刻まれています。先生の出身地徳島県美馬市にあるお墓については美馬市の作成した動画がYouTubeにありますのでご覧ください。

Hier ruhen Dr. Hayari Miyake und dessen Frau Miho Miyake.Sie wirkten vereint für das Wohl der Menschen, Und schieden vereint als Opfer von deren Verirrungen.
Albert Einstein
この墓碑銘の翻訳は上の動画、あるいは西日本シティ銀行の記事にありますのでご参照ください。

以上の記事は西日本シティ銀行にある記事と、ポーランド語版のHayari Miyakeの記事オランダ語版の美馬市の記事に基づいてまとめました。どちらの記事もGoogle 翻訳(たとえばポーランド語を英語に翻訳して読みました。日本語への翻訳は英語への翻訳にはるかに劣ります)で読んだので間違っているところがあるかもしれませんので間違いはご容赦ください。詳しくは、九大図書館の蔵書にも、お孫さんが書かれた「アインシュタインからの墓碑銘」という本
lがあります。市販されておりますので是非お読みください。

 

ノーベル賞受賞者Sulston先生について

線虫C. elegansの研究でノーベル賞をとられたSulston先生が今年3月6日に75歳で亡くなりました。胃癌だったとのことですが、亡くなる一か月前までは仕事をしておられたとか。先生らしい最後だと思いました。昔、私がケンブリッジのMRC LMB (The MRC Laboratory of Molecular Biology )の John White先生のラボにいたとき、ハロウィーンのパーティーをSulston先生のご自宅でやるからということで、皆でうかがいました。夜でしたが、御庭の池のほとりには日本の提灯が灯をともしてぶらさげられていて、私もお土産に、息子の折った折鶴で口に小さな線虫を咥えているものを、何重もの箱の中にいれてお土産に先生に渡しました。先生は面白そうに箱を何回も開けて、やっとでてきた折鶴が、線虫をくわえているのをみて笑っておられました。

MRC LMBの線虫研究者John White先生の手で、世界で初めてレーザー共焦点顕微鏡が実用化された(MRC LMBの工場で組み立てたそうです)のですが、この MRCの線虫ラボには伝説の床というのがありました。Sulstonさんたちが世界ではじめて、線虫のすべての細胞の系譜Cell Linages(どの細胞がどんな細胞になるかという系譜)を明らかにしました。多細胞生物の細胞系譜の完全な記述は世界初の偉業でした。

その実験ノートが残っています。線虫の胚発生を実体顕微鏡で逐一観察し、丸椅子に腰かけて実体顕微鏡で線虫の発生する様子を逐一観察しては、ノートブックへ発生の様子を書き込み、また顕微鏡にもどって観察するという作業を繰り返していたそうです。その作業のたびに丸椅子がくるくる回るので、とうとう床に穴があいたのだそうです。それが伝説の床なのです。左の写真はその床の場所を私が撮影したものですが、さすがに床は修理されていました。

毎日4時間休みなしで観察する作業を2回くりかえし、18か月におよぶ観察で約1000個の体細胞からなる線虫のすべての細胞の発生の様子(細胞系譜:どの細胞が分裂して、どの細胞になり、どの細胞がいつ死ぬかなど)が明らかになりました(White先生が書かれたSulstonさんへの追悼の辞をごらんください)。そのノートの一例がMRC のサイトにありますのでご覧ください(写真)
A4のノートの一行目に日付が書いてあります。細胞は色鉛筆で色分けされて示してあります。観察しているSulstonさんに一番近い細胞が赤、その下が緑、次に離れているのが黒、次が青、次が紫という色分けで3次元の細胞配置をスケッチしています。、観察している時間が発生中の胚の部分の絵の左上に書き込んであります。丸で囲んであるのは、胚の発生開始後の時間です(分表示で205分、215分とか書いてありますね)。
当時は、自動で胚発生を観察して記録するシステムもなかったので、すべて直接観察で手書きでスケッチしていったのですね。ものすごい努力です。
私がMRC LMBの線虫ラボに留学していたときには、White先生がパイオニアのレーザーディスクに発生の様子を自動記録するシステムを完成させておられて、観察と記録がもうすこし楽にできるようになっていました。ちなみに、White先生はレーザー共焦点顕微鏡の開発の他、線虫の300個程度の全神経回路網(どの神経が体のどこにあって、その神経細胞がどの細胞と接触しているかというのの全貌:今でいうコネクトーム)を解明したのでも有名です。

Sulston先生はその後、線虫ゲノムの配列解析の偉業にとりくまれて、完成。多細胞生物ではじめての全ゲノム配列の決定に成功しました。このプロジェクトの経験は、続いてSulstonさんと Bob Waterston先生(当時MRC LMBのポスドクで、セントルイスのワシントン大学へ移動)がとりくんだヒトゲノム配列の決定に大きく寄与したのです。Sulstonさんや線虫の研究者は、得られた成果を囲いこむことなく広く皆で共有するという秀逸な方針をもちつづけたため、ヒトゲノム配列の決定結果を売りだしたVenterたちとは対立し、急いでヒトゲノム計画を完成させました。、他にも乳癌遺伝子の成果を特許で囲い込もうとする動きにも鋭く対立しておられたと記憶しています。近年は生命科学と倫理の問題にとりくんでおられたと聞いています。

ここに載せている実験ノートの写真もCC BY 4.0といういう自由に利用できるという宣言がなされているものです。Sulstonさんの研究データの公開、共有という方針とおなじですね。

歴史にのこる科学者Sulston先生のご冥福をお祈りするとともに、その精神を受けついていくのが大事だと思います。

春真っ盛りです。「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」

本日づけで九州大学の野村研究室のホームページの更新を停止しました。このページが今後のホームページになります。
外を散歩しているとまだアザミが満開で美しいです。タンポポは種になってとんでいます。今年は桜もとても美しく、また自宅のリンゴの木に沢山花がさきました。八重桜をバックの写真をご覧ください。

NHKのBS1でブレイブという番組シリーズの再放送をしていました。
「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」

という番組でした。面白かったです。以前、図書館から『Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男』佐々木健一著という伝記を借りてきて読みました。藤田哲也は、アメリカにわたり気象学者として世界的業績(気象学のノーベル賞といわれるフランス国立航空宇宙アカデミー賞・金メダルも受賞)をあげました。シカゴ大学教授でノーベル賞をとった自発的対称性の破れで有名な南部陽一郎先生のお友達でもあります。竜巻の規模を表す藤田スケールの導入は有名ですが、最大の業績は飛行機の墜落原因となるダウンバーストの発見と検出方法の確立です。ドップラーレーダーをつかったダウンバーストの存在の証明、そしてドップラーレーダーによるダウンバーストに起因する墜落防止システムの確立によって、それまで頻発していた謎の墜落が皆無となり、世界の空の旅が格段に安全になったのは藤田先生の業績です。世界の空を救った男といわれるゆえんです。

北九州生まれで明治専門学校(現在の九州工業大学)卒業。そのまま同校の物理の助教授となり、長崎や広島の原爆の被害調査にも現地入りしていた人です。彼は気象の研究のため地元福岡県の背振山気象観測所で雷雲を観測、つよい下降気流が雷雲から発生することを発見して英文の論文を書きました。それが彼の気象学デビューです。ある日、背振山の気象庁観測所で気象観察していたとき、アメリカ軍に占領された隣のレーダーサイトのゴミ箱に、アメリカの気象学雑誌がゴミで出されており、読んでみると自分の発見した下降気流の存在をアメリカで巨大プロジェクトでみつけたという論文でした。自分の論文と同じ結果だったので、さっそくアメリカの気象学者に手紙をだしました。なんとそれがアメリカの気象学界の大御所で、返事がきたのです!自分のところに助手としてこないか?という手紙でした。博士号がないんですと返事すると、ではとったらおいでなさい。まっているから…。ということでした。東大で博士号を取得してシカゴ大学へと旅立ったのが始まりでした。

福岡の西のはずれにある背振山から福岡市と三郡山をみつめていた藤田先生のことが思い起こされます。西日本シティ銀行のふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」藤田哲也というホームページに面白いエピソードとともに藤田先生のことが紹介されているので是非ご覧ください。

2016.07.11(月)実験ノートの重要性1 

今日は実験ノートについてです。

以前、英国ケンブリッジにあるMRC 分子生物学研究所に保存されているBrenner先生(Nobel賞受賞者)の実験ノートの写真を載せたり
Pauling先生(Nobel賞を2度受賞)の実験ノートも紹介したことがありますが、
実験ノートと実験の生データの保存は極めて重要な習慣です。最近では研究者が研究倫理についての講習をうけることが各所で義務化されていますが、有名な本「背信の科学者たち」(ブルーバックス)などにのっている不正の例が、講習教材でもとりあげられていました。この本にはメンデルやニュートンをはじめ、いろんな有名人が登場しますが、不正ではないといいう意見があるのにざっくり不正と断定しているものも含まれるので注意が必要です。

たとえばミリカンというアメリカの物理学者もやり玉に挙がっています。彼は有名な油滴の実験とよばれる実験で、油滴が帯びている電荷が一単位、二単位というようにとびとびの整数値をとることを鮮やかに示し、電子の電荷の値を正確に測定することに成功して、電子の解明に大きく貢献した学者です。この業績でノーベル賞を受賞しています。「背信の科学者たち」(ブルーバックス)によると、彼の実験に不正があり、自分に都合のよい結果だけを選んで論文にしたとあります。しかしこれには異論があり、彼の実験ノートを詳細に調査した結果、すてたデータは電荷の算出に必要なストークスの法則にあてはまらないものだけだったなどの点があきらかになっています。ミリカンの実験データの扱いは正しかったという真逆の結論です彼のノートには、実験日の気圧、装置を減圧して測定してストークスの法則があてはまるとき正しい値がでるとを確かめた際の気圧もちゃんと記載されているそうです。これも実験ノートが残っていればこそできる調査ですね。

研究ではデータやサンプル(試料)の保存も大事で、たとえば生命の起源にせまろうとしたミラーの実験。放電実験でできたサンプルでミラーがなぜか調べなかったサンプルが見つかり、それを現代の最新機器で調べてみると、ミラーができたといっていた以外に、なんとペプチドもできていたのがわかった、というエピソードもあります。
私たちの伊都キャンパスにおられる森田先生が発見された113番元素はニホニウムという名前になるはこびですが、これはニッポニウムと呼ばれ一時は周期表にっものっていた、日本人が発見して命名した新元素へのオマージュでもあるそうです、この幻のニッポニウムも、原子番号の同定に誤りがあったのですが、残された資料の解析から実際に当時未知だった新元素を発見していたことがわかっています。ニッポニウムは、当時未発見だった新元素レニウムだったのです(日本化学遺産に登録されています)。

実験ノートと研究資料の保存は大事ですね。